2011年4月3日日曜日

【震災アクション】気仙沼、飯館村、鹿沼の避難所をおとずれて

ネットワーク農緑事務局
新庄水田トラスト事務局
鴨川市大山支援村スタッフ
      阿部 文子


4月3日 朝、鴨川大山支援村の会議のあと出発、新庄から気仙沼へ

鴨川大山支援村の林良樹さんの運転で、自動車で郡山から福島ヘ入ると、土の入った大きな土のうがたくさん並んでいる。

道路の修理のあとが、郡山に入ってひどくなり、米沢に入ると、体に異変が現れる。鼻はムズムズし、目がさすように痛い。蔵王町あたりでおさまった。墓石がなぎ倒されている所が何か所かあった。

夜8時、ようやく山形県・新庄に着いた。私たちの到着を待っていてくださって、一緒に夕食、その夜、高橋保広さんの農業についての話を聞き、お風呂に入ってぐっすり休んだ。

4月4日朝5時、道路も田んぼも庭も雪に埋もれていて、全体がうっすらと明るい。荷物を積み込み新庄から宮城県・気仙沼へ。

ネットワーク農緑 新庄の代表、高橋保広さんを中心として、佐藤恵一、阿部昭雄、遠藤敏信、星川公見、吉野昭男、今田多一、星川吉和の皆さん、そして2代目”のらくら”の若者5人、遠藤信子さん、高橋うた子さんの奥さん達、食事作りのプロシェフに、カメラマンを伴って、組織を挙げての一大イベント。

前日から用意された食材、米、豚肉、さといも、人参、ごぼう、コンニャク、漬け物に、ガス炊飯器、ガスボンベ各4台、それに直径1mもある、お風呂になりそうな大鍋、水。

人はマイクロバスに、荷物はトラックに、そして私たち鴨川市大山支援村の赤いマークをつけた乗用車もつながって、一路気仙沼ヘ。



気仙沼に入ると、入江に続く村や町は消えている。生活が、家族が、家が、車が、何もかもが粉々に砕かれ、車内から思わずウワァーと声が上がる。小高い紫会館の小さな広場に着くと、被災者の方々に挨拶し、すぐに準備に取りかかる。

炊き込みご飯と、いものこ汁。心を込めての協同作業。



炊き出しの場所の紫会館は、急坂の上にある、町の小さな公民館で、120名が避難。坂の下の街に家は残っているが、近づくとガレキが家の中に入り込んでいて、人が入ることさえできない。

道路がやっと整理された街を眺めていると、声を掛けてくださった40代の女性が、ポツポツと話して下さった。

向こうに見える、街の突き当たりの小高い丘の向こうは、海岸線の美しい町でした。重油が流され、一面に付着して火が着き、火の海でした。

こちら側は、『助けて、助けて』の叫び声。紫会館のある高台に逃れた人々に届く、その叫び声。今でも耳を離れません。地獄でした。」

3才の孫を抱いて逃げようとしていたら、天井が落ちてきて、一瞬、抱いていた腕から孫が離れ、そのまま行方不明」、という話。

大きな板が流れてきたので、それにつかまり、2昼夜漂って助けられた」話。

出来たての炊き込みご飯と、いものこ汁、ゆで卵、漬け物を、被災した人々は声もなく並んで、次々ともらっていく。ボランティアも掛ける言葉が無い。

チラチラと雪が降り、アラレに変わる。変わりやすい天候に、手はかじかんで、寒い。お互い火にあたり、いものこ汁で暖めて、林さんは気仙沼市役所に説明に行く。

 行方不明者の尋ね人欄が、ずらりと張り出された市役所も、混乱している。



紫会館避難所の長老の方が、「みなさん、ほんとうにありがとうございました。私たちは、いつの日か必ず立ち直り、街を、生活を立て直します。」

うしろ髪をひかれる思い、涙がこぼれそうになるのを、グッとこらえて聞いた。この言葉には、一抹の明るさ、光明を見た思いだった。


自然エネルギーの街 飯館村ヘ

4月4日、午後3時、気仙沼を出発。284号線を南下して、一路福島県・飯館村ヘ。この日、村長さんと逢い、お話を聞く。

村民6,000人のうち、3,000人が一時避難、そのうち2,000人が戻ってきた。

長崎大学の高村先生の話は「人体はマスクをする等で、影響を避けることができる。しかし『土』には触らない方がよい」というものであった。

村長は対応に苦慮しており、「対応が難しい」と、苦しい胸の内をあかした。

自然エネルギー、自然暖房、地元の材で創られた、木の香りの残る宿泊施設「までいの家」に一泊させてもらう。

4月5日朝、飯館村役場周辺を案内して頂く。町役場、までいの家、多目的交流空間、老人福祉の家、図書館と本屋、「石のまち飯館」にふさわしい彫刻もある。そして、それらの施設すべてに、エネルギーを供給する木屑チップボイラー2基。飯館村の方向性は、明らかに、この周辺に表現されている。

この田舎町で、これ程の整った施設を整えるとは、すぐれた職員の存在が光る。すばらしい。

しかし、朝起きて「までいの家」の庭で放射能を測ると、またたく間に計測器の針は振り切れた。体も反応している。目はチカチカ、歯ぐきの一部も出血、のどがイガイガしたり、軽い頭痛もする。


鹿沼体育館の避難者たち

 飯館村から栃木県・鹿沼に約100名が避難しているそうで、鹿沼フォーリストアリーナへ寄ることにする。ここは大きな体育館で、福祉センターが中心に、鹿沼市あげての支援体制である。現在、約200名の被災者がいて、直接、鴨川大山支援村の説明をすることになった。

4月6日、畳の敷かれたフォーリストアリーナの広い部屋で、説明をする。南相馬市、大隈町等、福島原子力発電所に近い町から避難した。

それぞれの役所、役場は、機能せず、病院も治療できない。20km圏内は、自衛隊が封鎖していて、家族でも戻れない。

南相馬市は、行方不明者が一番多く、村民全員が死亡した村もある。

南相馬市長に、ぜひ大山支援村の情報を入れてくれ、と強く要望された。

気仙沼と違って、住み慣れた故郷に戻って復興することができない、帰ることは許されないのだ、という重い絶望にも似た空気は、人々から笑顔を奪っている。

そこに来てくださった人々の要望は、新しい生活の場、生きていく場を求めて、ここに避難した人々の、多くの人々の要望に違いない。質問は具体的である。



重い、深い問題を、私たちも引き受けて行かねばならない。

日本のすべての原発を即時停止に!その声を世界の声に!

危機をチャンスに変えていこう。



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