あべふみこ
福島第一原発によって、日本の原子力発電所相対が浮き彫りになった。
それは、1)実態を改めて確認させられたこと。2)自分達の姿に
も、光を当てたことである。
1)実態を改めて確認させられた。
日本は地震国であること、その地域に48基の巨大な原発ががあり
、さらに、核リサイクルシステムの“もんじゅ”と六ヶ所村再処理
工場もある。すなわち、各原発から出る放射性廃棄物を再処理して
、原料のウランを購入しなくても原子力発電所が稼動するシステム
が目指された。
しかも巨大な原発の耐用年数が、わずか20年から長くても40年
。日本の木造建築から見てあまりにも短い。設備の巨大さ、リスク
の大きさから見てもあまりにもアンバランスだ。巨大だが、直接電
気を創っているわけではなく、たかがお湯を沸かす装置であるとい
う実態!実は、巨大設備そのもの、その運営が目的で、そこに群が
る巨大な利権の構造=原子力村の存在も明らかになった。
2)利権に関係のない私達の姿にも光を当てた。
巧妙に作られた安全神話の中に安住させられていた私達生活者。現
在の私達は、核の脅威の中で生きる存在としての社会的人間である
こと。そのことは、社会的存在としての大人の責任として、
原子力=核の問題について行動することを要請している。
原発の運転を横目で見ながら、ノーテンキにオルタナティブな生活
などを追及することは許されない。
すべてを失いかねない事態なのである。村を挙げてオルタナティブ
なエネルギーや生活を実践していた飯館村の悲劇がそのことを教え
ている。
そして、次世代、次次世代の人達に、人としてのくらしを引き渡す
責任を負っていることを忘れないようにしよう。
即時廃炉で動くことは、私達の日常生活の欲求である。
「誰が、放射能をみたでしょう?
僕もあなたも見やしない
けれど、私達のDNAを切断して、
風は通り抜けていく・・・・・」
(アーサー・ビナード)
0 件のコメント:
コメントを投稿