2011年8月28日日曜日

「母国語」の前にある「母語」の存在 ー子どもの深い悲しみー

あべ文子

水田トラスト運動の最初から、10口参加して、協力を惜しみなく与えてくださったお告げのフランシスコ姉妹会のシスターが手紙を下さいました。聖フランシスコ子ども寮のシスター・Kさんです。

子ども寮は、久が原の本部修道院の一画にあり、ほとんどが本人に責任のないことで起こっている父または母の虐待(なんと悲しみを深くする言葉でしょう)を受けて、社会的に保護され、ここにたどり着いた子ども達が生活しています。

諸事情で親と一緒に育てていくことが出来ない子をシスター達は愛いっぱいで育てていらっしゃいます。

私が訪問した時、よちよち歩きで幼児表現としての言葉もままならない幼児が、私の手をしっかり握り、広い寮内の自分の過ごす部屋、食堂、遊び部屋などを案内してくれるのです。 胸いっぱいで手を引かれて歩んだのを忘れることが出来ません。

成長して大学に行きたいという希望もかなえられるシステムも整えられました。そこでのシスターKさんの悩み。

「子ども寮で35年過ごし、どうしてもわからなかったことがあります。わからないというよりも、どうしていいのかわかりませんでした。それは「言葉」です。
子ども達に言葉を入れるにはどうしていいのか悩み続けていました。

いろいろな方法をとってきました。小さい時から絵本を読むこともそのひとつですが、絵本を読む以前の問題があるように感じていました。

最近読んだ本、井上ひさし著「日本語教室」の中で、母国語と母語とは全く質が違うもので、生まれた時から脳が育っていく時に、お母さんや愛情を持って世話をしてくれる人達から聞いた言葉、それが母語です。

赤ちゃんは自分を一番愛してくれる人の言葉を吸い取って、学びながら、粘土みたいな脳を細工していくわけです。言葉は道具ではないのです。第二言語、第三言語は道具ですが、母語=第一言語は道具ではありません。母語は精神そのものであることがわかってきました。

赤ちゃんの時からもマイナスの言葉をいつも聞いてきた赤ちゃんが、虐待のことばでこころを形成していれば、私が長年悩んできた理由がわかったように思いました。時間のかかることであっても、日常生活の中で子ども達に、プラスの言葉と経験がどれだけ出来ていくことかにかかってくると思いました。

虐待を受けた児童が年々増加していく中で、これからの養護施設での処遇にかかわる私達も、母語を持っているとすれば、お互いが優しく支えあい、お互いの母語を大きくしていくことも必要かと思います。(6月14日シスターKさんの手紙)

私達の社会には、3・11の震災で親を失った子ども達、震災や人災で幼い子ども達の心身に打ち込まれた悲しみがあります。水田トラスト会員の皆様、どうぞこの子ども寮の子ども達のも暖かい関心をお示しくださいませ。」

本部修道院連絡先:03-3751-1230


0 件のコメント: